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ぎんなん
日時: 2010/12/13 12:08
名前:   <yusoneda@yahoo.co.jp>
参照: http://soneda.or.tv

平成8年2月に創刊。
隔月に句会があって、また隔月に発行されるA4の8頁の句会と通信互選の発表紙と言っていいと思います。

創立の経緯は、そのうち聴いておいて挙げたいと思いますが、この会は、層雲慶の作家が多いのですが、『層雲』の支部ではありません。

この会の特徴は、主催者を置かず、会員は平等に選句され評される開放的な会であり、その意味で『層雲』などにみられる年功序列や権威主義がありません。
しかし、会の水準は高く、句評も活発です。

初期のメンバーには隗師もおられたことが分かりました。『草原』の随句の基調を試し、理解を得る場として、相応しい会と思っています。

2号  留意事項

 一、出句が正しく扱われる場とする。
 一、一つの志向に拘泥するのではなく、多様な志向を認める場とする。
 一、規定された自由律俳句の場ではなく、自由律俳句を探す場とする。
 一、互いに慣れ合い誉め合う場となることを避ける。
 一、開放的な場とする。関東だけではなく他の地域にも広める。


2号の後記より
 『ぎんなん』について

「ぎんなん」での俳句の発表は、競争の場ではなく、探求の場としたいと考えています。競争は句作する上での一つの方便にすぎないと考えています。かって石井歓(当時、日本合唱連盟理事長)氏に合唱コンクールは邪道ではありませんかと直接話したことがありました。その時氏は、現実に合唱が発展していく上での必要悪と考えていると若い私に話してくれました。競争を自分のものとして句作の励みになるような場としたいものです。   開かれた場とするためには、皆様の意見が必要です。活動内容により優れた方法があれば、そのようにしたいと考えています。お便りを心からお待ちしています。
 無理をせず自然体で永く続きますようにと、また「ぎんなん」が皆様方の句 作の一助になればと思っています。今後、皆様の暖かいご支援とご協力またご 批判を御願いいたします。(幹事一同)
メンテ

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3号 平成8年4月29日発行 ( No.3 )
日時: 2010/12/13 12:44
名前:   <yusoneda@yahoo.co.jp>
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▼   今月の高点句

▼▼  蝶がここまで来てくれた窓あけてある 斉藤  実

▼▼  埴輪の眼深く影する寒明けて 伊澤 元美

▼▼  昨日の喧嘩まだ続いている階段の足音 松尾 尚子

▼▼  あどけなき雛飾れば丁入居の暮らし足りてる 佐瀬志づ子

▼▼  小春の無人のホームが放送している 北田 傀子

▼▼  空どこまでも深ければ雲のさびしさ 篠崎 信勝

▼▼  体こきこき音させて酒の前の男ご機嫌 河内登美子

▼▼  反抗期お手柔らかにいよかん頬張る 南家歌也子

▼▼  影の角が取れたほろ酔い 萱沼余死行▼

 後記
 「句作品に作者名があると予断を許してしまうので、作者名はない方かよいのでは」との意見がありました。作者名を載せない方法も年二回ぐらい実施しようと思っています。(幹事会)
 四月一日朝日俳壇。「季題のない俳句は俳句でない」という論旨から「通夜の灯を遠くにしたる別れかな」に季題を入れ「通夜の灯を朧にしたる別れかなにした方かぐんと良くなる、とありました。本当にそうなのかなと疑問をもちました。これでは作者の現実が希薄になり、作者自身の思いとはずれてしまうのではと感じたからです。季語に執着するあまり本当の所を失ってしまったように思います。井泉水先生の基本とされた自然・自己・自由の厳しくとも大きな包容力をもった考えもとで句作できる喜びをこの時感じました。
 筒井風茎亭さんが御逝去されました。四月て一日お通夜、四月一三日告別式があり写真の風茎亭さんはかすかに微笑んでいるようでした。随雲設立に尽力され層雲、随雲の論客として活躍された長老でした。随雲全国大会(東京)で大変お世話になり、また一つ大きな支えを失った思いです。心から御冥福をお祈りいたします。(広隆)
メンテ
4号 平成8年5月31日発行 ( No.4 )
日時: 2010/12/14 22:55
名前:   <yusoneda@yahoo.co.jp>
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今月の高点句

カレーが大好きな子にうっすらと髭 南家 也子
◆これだけ素直な表現は、うれしいです。句の原点といえます。私もカレーは大好きなので見習います。(余死行)

ふる里の駅に下り立ちみんなふる里 篠崎 信勝
◆久しぶりにふる里に帰り着いた心情がよく出ている。「ふる里」の語のリフレーンが効果的。(元美)
◆駅を降りて目の前に広がる風景、山も川も、駅前の店も、空の色もみんな昔のまま。でも歩く人の顔は知らない。(紀彦)

ひとり下駄の音ころし晩い月と帰る 金子 美代
◆しばしば酔っぱらって靴音乱して帰る私だが、晩ければ晩い程空を見上げる ことになってこの気持よくわかります。(常男)

鉢で育てたパセリお弁当の隅に入れる 松尾 尚子
◆街で生活するものにとって新鮮なものへのあこがれも、ちょっとした工夫によって温かい心ずくしのなる佳句、(鳴川)

開ければ部屋のなかまでひばりのこえ 佐瀬 広隆

見渡すかぎりつくしの風吹いている 北田 傀子
◆早春になると土筆が顔を出し、みるみる草原はじ熟くした春の土の匂いが湧 き立ってくる。子どもの頃をふりかえりながら作者は草原に立っているのでは。 (信勝)
◆野原一面のつくし。風があって臨場感がある。リズムは簡潔で素朴さがあり しかもふんわりした懐かしい感覚が伝わってくる。(広隆)

これより散るほかない花がこんもり微笑む 下村 鳴川

青空のさくらの下のすべり台 井上 敬雄
◆この句に出逢った瞬間、ほわっと幸せな気持ちになりました。(歌也子)

気狂いではない携帯電話が歩いてくる 下村 鳴川


編集後記
 若葉の色も小鳥達の鳴き声も皆光りに溢れています。随雲の全国大会が浜松で行われ、七夕のように一年に一度の心を通わす大会となりました。大会の中で田中伸和氏が新しい選者として紹介されました。氏の挨拶の中で俳句は韻文であるという論旨から「自由の中に もう少し韻律を...云々」という下りがありました。自由と韻への考慮は日常の句作りの上では拮抗する関係にあると思います。韻律にこだわらず自由すぎれば散漫になる嫌いがあります。また韻律に拘りすぎれば自然さが損なわれてくることがあります。これらを調和させるのは、己の心の中の素直な響きということでしょうか。自由に甘んじて句作したり、韻律によってのみ句作したりするのは、その時点で自然で新鮮な響きを失いマンネリズムに陥っていきます。それを不満とし、いつでも自己の心の中と対峙し、ある種の緊張を持ち続けて句作することが大切だと感じました。(広隆)
 次回、御提案がありましたように作者名なしで行ってみたいとおもいます。それに対する御意見をお寄せ下さい。(幹事一同)
メンテ
5号 平成8年6月30日 ( No.5 )
日時: 2010/12/14 23:10
名前:   <yusoneda@yahoo.co.jp>
参照: http://soneda.or.tv

今月の高点句

 風に乗った声が遊んでいる      萱沼余死行

 うちの杉の木に暫く休んでいた春の月   金子 美代

 窓に花見せてくれる枝ひとりねている   斉藤  実
◆ご病気でしょうか 枝の花を見、心静かになれるのではないでしょうか(みい)

 少年薄暮れ時の甘い孤独を愛する   伊藤千代子

 幼い姉妹のかごもっていく野道  井上 敬雄
◆つみ草のかごか?二人の幼女が野道の春風に送られて行くメルヘンの世界を想う、(安紀子)

 菜の花背にいずこをみても海の紺  臼井美智子 

 人生駄目にしたその酒に酔うている  斉藤  実
◆誰方の句だったか・・・酒のうえのしくじり酒一本ぶらさげ詫びにいくといった様な句を思い出しふと人生駄目にした作者の心情に同調しました。(鳴川)
◆身につまされます。しかし、それでも酔うとは男の性ですかね。その酒の「その」がこの句を骨太にしています。(余死行)
◆自分では程よい酒と思ってきたが、やはりやるとやらぬとでは差は小さからぬと私もまた自省する一人です。

 私にはなかった この背の高い青春  吉多 紀彦

 鏡の中老い深まりし顔とむきあう  佐瀬志づ子
◆作者の心の奥が描かれている良い句です。老いの慄然とした思い、生への情 念と、過去への想い、哀しみとが、下句の「顔とむきあう」の中に、上手にま とめられていると思います。(登美子)

お詫び
 第四号の編集後記の文中「自由の中に もう少し韻律を・・・云々」は、 
「現代詩よりもう少しリズム的で豊かに・・・云々」と訂正されねばなりませ
ん。お詫びして訂正いたします。後記は、田中伸和氏の話の一部から触発され
小生が頭の中でリズムや韻等ふと思いめぐらしたものを書いたものです。後記
の内容の文は小生の考えであり、田中伸和氏の講演の内容ではありません。誤
解が生じましたことは小生の責任です。重ねてお詫びいたします。
 「俳句より少し詩的で楽しく、現代詩より少しリズム的で豊かに・・・・・
井泉水先生の言われた 俳句は一つの段落をもつ一行の詩である・・・・」動
作を交え、ソフトな語り口の中にも一本信念の通った田中氏の良い講演であっ
たこと付記致します。(広隆)

編集後記
 水。梅雨のしとしと降る雨は、草木や田に恵みを与え、川は魚やそこに生き
る物を豊かにし、我々の喉を潤し、汚れ芥を溶かしぬぐい去る。あるとき山を
崩し、人家を押し流し、人知の無力さを思い知らせ狂乱と化す。
 恵みも天災も 人からの水の有様。しかしどちらの水も同じ水。水は流転し
流れ続ける。(広隆)
活動の場は関東中心にその以北。編集後記や将来仕事を幹事で持ち回りとす
る事を話し合いました。(幹事一同)
メンテ
6号 平成8年6月30日 ( No.6 )
日時: 2010/12/14 23:31
名前:   <yusoneda@yahoo.co.jp>
参照: http://soneda.or.tv

今月の高点句

四八 養父とは知らずに育ち墓ごしごし洗う 菊池 正治
◆「養父とは」教えられなかった、知らなかった作者の今更の様に父への敬慕の気持ちがうまく出ている、「ごしごし洗う」が殊にいい、(朴愁)
◆黙し続けた養父の生涯と、実父と信じ切ったこの生き様は、山本周五郎・池波正太郎のサムライの世界。心に留めて置きたい秀句。(群青子)
◆よくまあうまく騙し通したものだこの私を。しかしあのやさしさは本物だった、いやそれ以上だった。(常男)

三 それでも鏡に薄く紅ひいて老の身仕舞 福田安紀子
◆男でも女でも無様な老い方はしたくないもの。常に老いの身仕舞を忘れず「それでも」「薄く」とあくまで控え目な心根が好ましい。(福司)
◆どんなに老いても女であることを忘れずに薄紅をひく。清潔さと可愛さを持ち合わせた老人の気持ちが、「それでも」の中に、「身仕舞」の中に、静かな和みとなってゆらぎます。(登美子)

一六 床屋の鏡で日が暮れていく 井上 敬雄
◆この句には短いながらも読者にあれこれ想像させる奥行きがある。かつ、また言い過ぎないところにキレが感じられる。(渓水)
◆ 床屋で頭をまかせて鏡に写る暮れて行く街の風景をながめている。こんな平和で静かな一日の終わりが一年のうち何度あるだろう、(紀彦)

四二 子の缶ジュース一口貰って夏の風吹く 南家歌也子
★夏へ向かう季節は希望的、この親子の関係もとてもさわやかです。泣いたり笑ったりの子育て、頑張ろう。(尚子)
◆何つもの場面が浮かびます 子供だから良いのです 女や男では様に成りません 健康的で佳句 (美代)

二一 熱のある体に長すぎる午後の日差し 松尾 尚子
◆いろいろのことを背負って生きている、今日も何かと朝からある。自分の身体が自分の身体でないような日々の一日が続く 同感である。(泰寛)

七 思い出せないその顔に詫びている 下村 鳴川
◆ちょっとした言葉や態度で人を傷つけてしまうことが私にはあります。 「その顔に詫びてる」のところが良く、身に染みる句です。(歌也子)

一一 老いて息子と頂く一碗のお茶にうるおう 佐瀬志づ子
◆夕べかな 心和むひととき こんな一瞬を過ごしてみたい。欲ばりかなと思うが・・・・(みい)

一八 春は小さな踏切にも人溜めて花の山がふくらむ 河内登美子

二二 すでに人生の余白 青い嵐にふかれている 遠藤 虹水
◆若い人には若く新鮮で情熱の句が当然あるべきであり、老いた人には、人生とはなにかが、心の随まで染みとおった句があるべきでしょう。すでに≠ェなかったらもっと佳かったのでは。(信勝)

三〇 食卓のトマトの青さが足りぬ 原田 泰寛
◆トマト本来の旨さが失われて、口当たりのいい味が求められている。これは、人間の見方にも言えると考えるのは深読みすぎか。(余死行)


編集後記
 「ぎんなん」が第六号まで数えましたことは、会員の皆様の厚いご協力の賜物と、幹事一同、大いに感謝しいたしております。「ぎんなん」としての特徴ですが、個人誌の性格を帯びておらず、なかなか表出しにくい面もあります。
 しかし、七月二十七日に幹事会を開き、今後の運営の仕方、内容の充実度、句のあり方等々談論風発し、次号から少しずつ特徴を整えていきたいものと、意見が一致しました。
 会員の皆様の積極的な参加が必要となりますので、その節にはよろしくお願い申しあげます。
 さて、句作りの中で個人的には、今の時代を反映する姿勢をもつこと。常に無駄な言葉を除き、短律の努力をすること。言葉は言霊・・・言葉に内在すると信じられた霊力・・・を持つと認識し、言霊と交感する事。などと漠然と考えています。
 短律を目指すと、七月二十七日の幹事会でも話しが出ましたが、とかく哲学的な観念に陥りやすく、箴言や格言などになりがちなものです。どこかで歯止めをかけるかが、とても大事な問題になることと思われます。
 「ぎんなん」の中でより切磋琢磨して、一歩でも前を行く、スケールの大きい句を作りたいものです。(余死行)
 句を決め、その句を二、三人で批評をし、更に互いに書簡を交換して疑問点を出したり答えたりするコーナーや通信欄を設けたいと考えています。事務処理の煩雑さがありますので、実施する場合、発行が隔月になることになります。 幹事で一回試しに行ってみたいと思います。結果が良ければ会員の皆様にもご協力をお願いする予定です。(幹事一同)
メンテ
7号 平成8年8月31日発行 ( No.7 )
日時: 2010/12/25 23:35
名前:   <yusoneda@yahoo.co.jp>
参照: http://soneda.or.tv

今月の高点句
▼▼ まな板の音と音もなく雨降っている 北田 傀子
静かな日の「音」が「無音」にもひとしい雨の日の リズミカルな言葉が生きている。(元美)
静かに雨が降っている夕方、台所から食事の仕度をするまな板の音が聞こえてくる。何でもない日常生活のひとこまであるが、何かいつまでも心に残るなつかしさがある。(敬雄)

▼▼ ふと行先変えた猫の心当たり 吉多 紀彦
誰もが知っている自分の過去の空白は埋めることができない。童話の世界の不思議な不思議な人間の心層を突いた句である。(泰寛)

▼▼ 深い青葉に踏みこんで人間である事忘れそう 河内登美子
日々の世の性のわずらわしさよりのがれて森の濃い青葉で一刻人間である事を消したい。(義正)

▼▼ 親より大きな靴で離れて歩きたがる 松尾 尚子
男の子の成長過程をうまく詠みこんでいる句だと思います。何時か母親に近寄って来てドギマギする時がありますよ。(安紀子)
成長している子への思いやり親離れの様子がリアルに表現されている。(鳴川)

▼▼ 病む友を心に真白な雲みつめる 南家歌也子
真白な雲をみつめながらや病む友を思っている あたたかな心(みい)

▼▼ はじき出された人生をじっと見つめる 下村 鳴川

▼▼ 窓にうつった影無邪気で小児病棟の七夕 松尾 尚子

▼▼ 年寄ればふる里とおく浪音 篠崎 信勝

▼▼ 小走りに走っては並びそうして過ぎた才月 伊藤千代子
夫婦の歴史を大切にして、これからもずっとかわいい奥様でいて下さい、小走りに走って並ぶ女心が好きです、(尚子)

▼▼ 月をごしごし磨いてまた掛けておく 黒崎 渓水
この感性の見方は分かれると思われます。しかし、なぜ、この感性が私の心に働きかけるのか、それを大事にしたいものです。(余死行)
月を磨くとは大きく出たもの。たとえそれが額のようなものであってもいいではないですか。諧謔のきいた大好きな句。(福司)
「月」はいつ見てもきれいな顔している。誰か「ごしごし磨いて」いたの か、「また掛けておく」に余情があって楽しい句だ。(朴愁)


編集後記

 久しぶりに郷里鳥取へ帰って来ました。我が師中原紫童が「落柿舎」と呼び、多くの句を生んだ生家が取り壊され、更地になっていました。彼の拠った「層 雲」は既になく、確実に時代は移っていることを痛感します。「自由律俳句」という定義困難な詩型にいのちを与えようと斗ってきた先人の心をこの「ぎんなん」も受け継ぎたいと思います。この不安と葛藤の中から生み出される実作こそ定型を越えられると思います。この小誌がそのための冒険、実験の場であっても良いと思います。
  更地に残された句碑から。

老いてふるさとに教師とし秋のかぜふく    紫童
    
(紀彦)

次号の「ぎんなん」八号は、前号で提案しました通り、新たな企画を加え隔月の発行と致します。新たな企画は、左記のようです。
一、自由律俳句を一句取り上げ、予め決めてある三または四人の人達に自由に批評をしていただきます。つぎに互いにその書簡を交換し疑問の部分や思うところを自由に述べて議論します。その往復書簡を「ぎんなん」掲載したいと思います。幹事四人で手始めに行ってみます。
 次回から会員の皆様に依頼したいと思います。
 (今回取り上げる句)
  御祭りの夜明けの提灯へたへたとたたまれる 放哉

  二、「声の欄」
皆様の意見、要望を寄せて下さい。投句紙の裏面に御意見、御要望、感想や挨拶等お書き下さい。

新しい企画や「ぎんなん」が隔月発行になったこと等幹事会で決めましたが皆様の御意見を賜りたいと思います。皆様の御意見でぎんなんの企画の存廃を行いたいと考えています。(幹事一同)
メンテ
8号 平成8年10月31日発行 ( No.8 )
日時: 2010/12/26 00:10
名前:   <yusoneda@yahoo.co.jp>
参照: http://soneda.or.tv

▼今月の高点句
▼▼女の降りた体重計に夏の風のる   吉多 紀彦
▼▼ 遠い花火の方へ電車の灯がいく 北田 傀子
何かいい気分になれる。遠い花火がはなやかな美しさを 落ち着かせてくれる。その花火の方へ乗客の少ない電車が走っていく。(敬雄)
都会の遠花火は音がついて来ない。今花火の方へゆっくり動く電車の灯。だがその音も微か。都会のパントマイム、と私には感じる。(常男)
遠花火の方へ走り去って行く電車の尾灯を見送る作者の胸中は。どのような人が乗っているのだろう。(実)

▼▼ 老母と枕並べれば耳に忘れかけていた海鳴り 佐瀬 広隆
遠い日の海鳴りが聞こえる母の白い髪雨の音暗い海 (由)

▼▼ どんと背中突かれたような君の訃 斉藤  実
一人二人欠けと、友達が逝ってしまう年令ではあるが、予期せぬ親友の訃報には真実肝を冷やす。「どんと背中を突かれた」衝撃は腹の底まで突き刺さる。(福司)
青天の霹靂とはこのこと、どんと背中突れたようなショックぶりに共感できる、(鳴川)

▼▼ 釣り上げうれた魚の眼 閉じず 原田 泰寛
この句にはすべてイノチを持ったものへの哀感がある。ただ表現としては「・・・魚の眼閉じず」とつづけたい。(朴愁)

▼▼ 青ジソ添えて夏をつると食べる 伊藤千代子
言葉のたたみ掛けが利いて、非常にリズムのある句。「夏をつると食べる」いい表現ですね。(余死行)

▼▼ 温かい心の花束抱えきれず下りた緞帳 金子 美代
若い時アマチュア奇術師であった私は、この句で封印した緞帳の中側にいた記憶がよみがえってしまった。(国士)
花束を抱きながら頭を下げる 前に静かに緞帳が下りて行く、拍手は鳴りやまない。やっと終わったという思い、客への感謝、万感こもった句(紀彦)

▼▼ 同期の絆生き続けて八月十五日 古市群青子
戦争の悲劇を訴えるにはあまりにも短い詩形ではあるが、やらねばならぬ使命がある。弱くとも、少なくとも続けなければならない。(泰寛)
言い尽くせないものを持っておられる 絆はいつまでも生き続けることでしょう。(みい)

▼▼ あの人逝った 家こわされた土の色 金井 みい

▼▼ 飛行機はぞうさんの雲へ向かっていく 南家歌也子
夏空の入道雲はメルヘンの世界のよう、色々な動物に見えて夢がふくらみます。(尚子)

▼▼ ぽっかり炎天の浮雲漁舟うごかず 篠崎 信勝
海好きな私には、この句からどうしようもない暑さ、うだるような暑さの中海が、見事に浮雲漁舟を主役として表現されていると。(群青子)

▼▼ 原爆ドームの上にあるひとひらの雲に汗する 下村 鳴川
八月の句は毎年原爆になるが、故松尾あつゆき氏の原爆二〇〇句を思い越せば取り上げずにはおれぬ。「ひとひらの雲」よ、悲しい雲である。(信勝)


編集後記

  吉村昭『海も暮れきる』に次のような場面がでてくる。設定は放哉の死の一ヶ月前、喉頭結核が進行し、食物が彼の喉を通らなくなっていた。
 「柱にかけられた花入れに水仙が咲き乱れている。ひしめくように十本近い水仙が茎をのばし、花弁をひろげている。不意に新たな恐怖が体にひろがった。水仙が鮮やかな緑の茎を伸ばした花を開かせているのは、花入れの中に入れられた水によるものだ。茎の切り口から水を吸い上げることで、水仙は生命を維持している。自分の体で水仙の切り口は口であり、水仙にとっての水は口から入る食物と水分である。食欲はかなり前から失われて体も衰え、咽喉の痛みで粥さえ食べることもできず水さえ通らなくなっている。水仙は水を吸収できなければ枯れるが、自分もこのままでは朽ちることはあきらかだった。」
このことは結社そのものについてもいえるが、結社の中の句の層についてもいえるのではないか。新しい水分の吸収こそが、やがて美しい花々の層となる源であろう。そのためには、ある一部特定の養分のみを認め、予めそれ以外を排除してしまうのは極めて危険である。富士の頂上が美しいのは広い裾野があるからであり、マンボウは自らの遺伝子を一つ継ぐために十億個の卵を産むという。『ぎんなん』は決して完成された作品の展示場ではなく、自由律の裾野を広げるべく、相互作用を含んだ実験の場でありたいと願っている。(渓水)
ぎんなんでは、来年、句会を開こうと考えています。皆様方の意見を聞き無理がないように実施したいと思います。顔を合わせ、俳句について日頃の思いを自由にまたフランクに語り合えたらと思います。
 句評に加え「声の欄」と「句会の御意見」を設けました。
 「声の欄」に書かれた文は、紙面の許す限り掲載したいと考えています。自由な御意見、近況、雑感等をお寄せ下さい。
 「句会の御意見」では、出席予定の有無、開催場所や時期等の御意見を書いて下さい。(幹事一同)
メンテ
8号 一句鑑賞 ( No.9 )
日時: 2010/12/26 00:11
名前:   <yusoneda@yahoo.co.jp>
参照: http://soneda.or.tv

一句鑑賞の往復書簡

 今月の句

      御祭りの夜明けの提灯へたへたとたたまれる    放哉

一 信

【萱沼余死行】
 作者の境遇にたっぷりと思い入れて句を語ることは、あまり好きではありません。その考えから、単純にこの句を浮き上がらせ、批評をしたいと思っています。
 この句をまず、表現上からみると、ポイントになるところは、二か所あると考えています。一つは、「御祭りの夜明けの」と「の」で終わる語を二つ重ね、「へたへた」の重ね語と対応させて句を構成したこと。これで、句の奥行きが十分でています。
 二つ目は「へたへた」という擬声語の効果性ではないでしょうか。これは句意に結びつく重要な言葉と取れます。
 又、「御祭りの夜明けの」と、ちょっと窮屈に感じる言葉の流れも、「たたまれる」の収束感を帯びた言葉で救われています。

さすが、言葉の選択の鋭さ確かさは、放哉ならではと言えます。
 句意の方から見ると、とても熱気を帯びた御祭りが終わる様子が、提灯を借りて、その状態を旨く表しています。これは御祭りイコール提灯の考えが、前提になっていると思われます。
 提灯をたたみながら御祭りの熱気を提灯に取り込み、御祭りの熱気を冷ましていくという行為は、確実な御祭りの終了宣言であり「へたへた」という力が抜けていく様を表す擬声語が、さらに生きてくるのでしょう。
 ただし、御祭りと提灯は付き物である、提灯がたたまれる様子はこうである・・・このことを理解できなければ、この句の面白さは半減してしまう事と思われます。これは、句における時代的背景の難しさであり、今の時代の句にも同じ事は言えると考えます。

【黒崎渓水】
須磨時代の句であり、内容的にはサラリーマンの悲哀そのものですが、これを彼の境遇と重ねて鑑賞するのは好ましいこととは思えません。純粋に描写の巧みさ、5755のリズム、そして「へたへた」の効果を味わうべきだと思います。加えて、これは句材の取り上げ方のうまさからくることですが、句自体は「たたまれた」瞬間を詠ったものですが、それ以前の永い時間をごく自然に想起させるところは、この句により一層の深さを与えているように思えます。

【吉多紀彦】
 我ながら鑑賞眼のないのを残念に思います。もしこれが句会に出たら採らなかったと思います。天才放哉の作品であり、おそらく井泉水の手も入っての句がどうも佳句とは思えないのです。「御祭りの夜明けの」と、提灯だけの説明に九音節も使っています。「の」の重なりも気に入りません。「祭り明け」では駄目でしょうか。また「たたまれる」は、思い入れが強すぎるように思います。「宴のあと」的な悲哀を狙っているのかとも思いますが、もう少し距離をおいて写生してみたらと思います。

祭り明けの提灯へたへたとたたむ

 はいかがか。「たたむ」を自動詞ととるか、他動詞ととるかは、読む人に任せても、受身形よりはよいと思います。

【佐瀬 隆】          祭りが終わり、その賑わいが嘘のように明け、日々の生活が再び始まる。祭りの後の空疎感がこの句にリアルに表現されている。祭りの提灯をたたむ様子ばかりでなく、自らも心の中にしらじらとしたものを感じつつ、考えて見れば自分もこの提灯と同じだなと思う。「夜明けの」「へたへたとたたまれる」は 放哉の人生に対する哀歓を浮き彫りにする。何もできないまたされるがままの提灯と自らの無力感や人生観と二重写しになっている。
 この句から盆提灯を消す消えるばかりの  井泉水≠思う。人の命のはかなさ、無常観がそこに漂う。しかしこの句は、作者の一途な求道的な強さを感ずる。放哉の庶民的な無力感や人生に対する哀歓とは距離をおいた世界と思う。
 両句とも見えない自己の世界を日常生活の素材から見事に描き出した句と言える。

二 信

 まず、余死行氏の評について、そのエッセンスは、表現上のうまさと、句意、つまり祭りに終焉の空虚感を評価されている点にあると思う。殊に句意の部分については賛同したい。それをさらにたどってゆくと、句材の取り上げ方のうまさに行きつくと思う。句作をする者の大きな課題であると思う。
 広隆氏の評について。氏は一般的にいわれる放哉句の無力感や哀感よりも、求道的な強さを指摘する。これは小豆島ではなく、須磨寺時代の作である点が影を落としていると思う。その時の彼の心の持ち様の表現であるのかもしれない。
 紀彦氏評は厳しい。思い入れの強さを指摘し、ドライに写生したオルターナティヴを提案している。句評から離れるが、これは我々が句作する際の、極めて重要な警告であると思う。ともすれば自己満足に落ち入りがちな傾向に歯止めをかけ、自由の中にも『律する』ことを忘れてはならないだろう。(渓水)

 どうもこの句を理解できなかったのは私だけだったようです。勿論、放哉句、 駄句であるはずはなく、鑑賞眼がないと割り切ればどうということはありません。
 この句を作者の境遇と重ね合わすのは好ましくないとする余死行氏と渓水氏に対し、目いっぱい重ね合わせている広隆氏の違いがおもしろいと思います。
 私はこの句の場合、広隆氏の読み方のほうが句の味が出てくると思います。ただ、そういう読み方が良いかどうかは別の問題ですが。(紀彦)

 句を評することの面白さ、難しさが、三人の方の評を読んで感じました。
 そこからは、正確な句評は主観が存在するかぎり、絶対的にありえないと結論付けてもいいでしょう。こう考えたら、誰彼の評はこうあるべきだ云々は、やめようとの気持ちになりました。
 それは自身の句評を正当化するための詭弁と言えるからです。後の裁定は、「ぎんなん」の読者にまかせることにしましょう。
 最後に私の反省すべきは、句を深読みしすぎた点です。直観を大事にしたいと思います。(余死行)

 小生の評と渓水さん余死行さんの評と食い違いました。小生の評は素人的です。評と同じように、自分の句も素人的にしか作れません。自分に正直に、できたら自分以上でもなく自分以下でもなく句ができればと思っています。「随 雲」でも「ぎんなん」でもこうした立場が許容されていることを小生は嬉しく思います。
紀彦さんは小生たちを試そうとしているよう。句作する上で紀彦さんの視点 は心に持っていたい。でも放哉のこの句はこの表現が良いとしか言えません。 (広隆)
メンテ
9号 平成8年12月31日 ( No.10 )
日時: 2010/12/28 00:04
名前:   <yusoneda@yahoo.co.jp>
参照: http://soneda.or.tv

今月の高点句

 部屋にこもりがちな十五歳の心へノックする 松尾 尚子
大変やさしい思いやりのある句である。句も上手であるがこのような思いで生活することが大切であると思う。(泰寛)
思春期の息子を持つ親として痛い程よくわかる句です。(歌也子)

 人を誹った淋しさの爪を切る 横山 国士
このような心理はよく経験するところ。「淋しさ」が「爪を切る」で具象化されています。放哉にもこれに似た句があります。(元美)
人は人といつも思っているが、つい我慢ならず人を誹ることもある。後の淋しさは何かをせずにはいられず、まず自分の身を切る。(常男)

 私の居場所確かめてなんでもないと言う 南家歌也子

 掌をふせたように海が眠る 黒崎 渓水
「掌をふせたように」という表現は単にたとえではない深くひびくものがある。(紀彦)
掌をふせたように≠ゥらは賑わった夏の海が、いつからか寂しくて静かな秋の海に変わっている様子がよくわかります (尚子)

 森の匂い縄文人が歩く 萱沼余死行
第一印象は、とても堅く感じられた。が、読後、不思議な言葉のイメージや語の響き合いで句がせまってきた。不思議な句だ。(渓水)

 朝顔家をかこんで玄関あけてある 井上 敬雄

 私がわたしをいやになり 影を蹴とばす 斎藤  実

 顔ジャブジャブ洗って覗く鏡の中に答えを探す 伊藤千代子
夫へずばり返したい言葉が欲しいのか、それとも社会人になられたお子への歯切れ良い返答か、鏡よ良い知恵を借して欲しい。(信勝)

 たわわなぶどうの一粒一粒送り主の瞳 下村 鳴川

 寂しい私から伸びていく髭 横山 国士
髭はどんな状態でも伸びるのだろうが、寂しいと断定したところが良い。 その髭はきっとうなだれている。(余死行)
顔を鏡で見ると淋しくなる。まして無精髭に於いておや。第一句もよいが  なんとなく類句がありそうなきがするので (虹水)
   何もかもイヤで 外室もせず心淋し 淋しくたって悲しくたって髭伸びる  元気あるものです 元気出して (千代子)

 雨音も虫の音もみな闇の底へ落ちて行く 佐瀬 広隆
不思議な虚無感が大好きです (国士)

 木槿の紅床にいちにちのいのちおく 篠崎 信勝

     編集後記

 「クレパスの箱」伸和氏と「雪の風紋」久寿氏出版祝賀会に鳥取へ往って来ました鳴川氏鶴田氏御夫妻も来られて、自由律俳句の会らしく良い会でしたきやらぼくに関連している余死行・紀彦両氏と私の三人から花束を贈りました、後有志の仲間と二次会三次会翌日は伸和氏に送られて米子空港から機の人となりました句の話井師の話に花が咲き句仲間の会も良いと思いましたぎんなんの句会も早く出来れば良いと感じました
 八年度の九号皆様の御支持により無事発行できまして御礼申し上げます新年から号も二桁ガンバッてゆきたいと願っています編集発送とお世話下さる広隆氏に感謝致します
 会員の皆様どうぞ来年も良いお年を(美代)

平成九年度『随雲』全国大会

 九年度の全国大会は秦野で行うことが決まりました。実績もない地方の私たちが大役をお引き受けして大丈夫なのか心配です。皆様方のご支援とご協力をお願いいたします。
 秦野は水清く、緑濃い土地柄で、その東方には鶴巻温泉があります。
 会場の『陣屋』は、鎌倉武将和田義盛の館跡といわれ、将棋の名人戦などに利用されてきました。
 かつて大山・升田の天下分け目の名人戦が行われた当日、時間早く到着した升田八段に気付かず、誰も迎えに出なかったので、憤慨した升田八段が試合を捨てて帰ってしまったことがありました。以来、宿では玄関に大太鼓を置いて、来客の都度打ち鳴らすことにしたのだそうです。
 大会には是非賑やかに鳴らしたいですね。

  ご 案 内
 日時・ 平成九年五月一七日(土)午後一時より
 会場・ 鶴巻温泉『陣屋』
  二五七 秦野市鶴巻北二ノ八ノ二四(小田急鶴巻温泉駅下車五分)
 経費・ 大会費      三、〇〇〇円
      懇親会     一〇、〇〇〇円
     宿泊・朝食   一〇、〇〇〇円
 出句・ 一句(未発表)
出句料      一、〇〇〇円
 申込・ 二二八 座間市座間二ノ八九一ノ五 北田傀子宛
メンテ
9号 一句鑑賞 ( No.11 )
日時: 2010/12/28 00:06
名前:   <yusoneda@yahoo.co.jp>
参照: http://soneda.or.tv

一句鑑賞の往復書簡
 今月の句
      何と楽しげな地突唄聞いて病めるは 桂子

一 信

【金子美代】
 この句が初めて目に入ったとき何と淋しい句と思いましたそして二つの情 景が浮かびました。先ずベッドに病む作者と継ぎに外の建築現場で土台の地がためか、地面に杭を打ち込む作業のやぐらの綱を引く八人の土工の男女。私の幼い頃に見た小母さんは着物の裾をからげ紺の手甲脚絆をしていた様でした唄の調子でだんだん鉄の重りが下り松の杭が地に入って、時には子供心に楽しげでも変な唄になり立ち去ったりしました一日中の綱を引いたり放したり面白おかしく唄わなければやりきれないでせうネ・・・・
 作者は大正三年二〇才で井師と結婚されお子様死産の後御病弱大正十二年十月逝去されましたその年の三月の作だそうです何と淋しく悲しかったことでせう
 二十九才の若さ御自分も健康でしたらと句の裏後の「は」に感じ取れますまた上句の楽しげなの「げな」の言葉の中にその唄の哀調が読みとられます
佳句
【臼井美智子】
  「地突唄」が現在の風景から消えてしまっているので推測ですが、鳶職さんたちが建築の地盤固めをするときの歌でしょう。病んでいる自分と健康な鳶職さんの歌声のコントラスト。「毬をつく地の夕やみも夢の埒」この無季作家林田紀音夫氏の句から、大正にさかのぼって掲出句がある。時代は違っても両者合通うものが漂う。
  地突唄が手毬唄ならばと思う。
【伊藤千代子】
地突の仕事は大変な重労働だと思う。その仕事の苦しさをまぎらわすために唄いながら仕事をしたのだろう。でも病む身には健康で仕事が出来ることが何よりもうらやましい事だろう。仕事の中から生まれた唄でさえ楽しく聞こえるのだから・・・病む身は悲しいものです。

二 信
  千代子様の評は端的と思います
  美智子様は重労働の唄を手毬唄にと思う心の優しさが受け取れます三 人三様句の受方は大方同じでも少しだけ感じ方が違って居るように思いました 句はその時の現在ですのに私は横や縦の広がりがその上自分の過去に見た場景 を重ね句の本意が薄れる感を知りました (美代)

  実際見たこともない状景を、とやかく言う資格は私にはございません。
  読者の方の中には、私以上に深く感じとられている方もおありでしょう。作者から作品が離れた場合、「あとは読者におまかせすべし」というのが、常日頃、私の抱いている感想です。(美智子)

金子美代さん、臼井美智子さんの句評を読んで私よりずうっと句評が上手であり唯々自分の勉強不足を恥じ入るばかりです、でも句を読んで心に思った事が・・・同じであった事が嬉しく・・・・私ももっと自分を表現する事を勉強しなければとつくづく思います、
主人と結婚し一番家族が多い時には、主人の両親二人妹三人弟一人主人と私と私達の子供三人十一人の家庭にあって嫁の立場として何事も黙って・・・・マア・・・イイヤ・・・・そんな世生を何年も過ごして・・・・誰にも立ち触りのない話ばかりして自分を出すことをしなかった・・・・そんな生活のクセが身についているのか・・・・自分の心の内を表現する力がほしいと思う、(千代子)
メンテ
10月号 平成9年2月28日 ( No.12 )
日時: 2010/12/30 00:14
名前:   <yusoneda@yahoo.co.jp>
参照: http://soneda.or.tv

今月の高点句
▼▼ 切符も釣も機械にもらい地にもぐってゆく 斎藤  実
コンピュータの性能アップで機械化も急速に進み、人間の合理性追求はどこまで行くのか、これも人間の幸福のためだそうです。(常男)
秀句では無いこの句に私は引かれました。現在子の無い老人は一日中口を  利かぬ日があるそうです。自販の出したつりを機械からもらい 人恋しい何という淋しさ 現代社會の便利さと老人の淋しさの世の中の変遷感じます(美代)
駅で見るいつもの光景。簡単に切符が買える半面でどこか空しさを感じる作者の思いがよく分かります。(尚子)
田舎の道は開発という名のもとに山へ山へと登ってゆきます。都会の、まして東京都もなれば、地にもぐる他はない交通手段。田舎人より健脚と言われる所以。諧謔見習いたい句です。(福司)
私は何者だろう、人間なのであろうか、機械に依って私の行動そのものが管理されている社会構造になりつつある考えさせられる一句。(泰寛)

▼▼ 死ぬることの残っていると雲の云う 篠崎 信勝
万人の終着点ですがあまり深刻に考えぬようにしましょう 小生など白い雲を見ていると何となく心楽しくなります (虹水)

▼▼ 捨てたはずのふるさとに人知れず咲くつわぶき 下村 鳴川

▼▼ 散りしいた山茶花の紅深く掃きのこしてゆく 佐瀬志づ子
作者は茶道にも深い心得のある方だろうかと思われます。箒の目の上に紅を残す審美眼がそれを証拠ずけているようです。(信勝)

▼▼ 長い暮らしをへて骨ふとく痩せし手包んでやる 佐瀬志づ子
存在感がここにはある。それも深い存在感である。「包んでやる」で志づ子さんの笑顔が浮かんできた。(余死行)
家族のために働き通した手 その手を愛情こめて包んでやる作者の優しさが伝わって来ます人間皆こんなに優しい心をもっていればと思う今日此頃です (千代子)

▼▼ まっすぐの遠くに白百合 北田 傀子
遠くに白百合を見つけた時の「あ」という感じが正に「まっすぐの遠くに」という見事な表現でとらえられています。(紀彦)

▼▼ お母さんも反抗期で子になだめられている 南家歌也子

▼▼ いちょうの青空ふってくる 井上 敬雄
銀杏黄葉の青空が急にぱらぱら雨をふらす。短律表現が効果的。(元美)

▼▼ 空しい心にコロコロころがる木の実 伊藤千代子
白い指の美しい女人が、ひとり何かもの思う秋の夜。生命線のゆくへは・・・。
千代子さん水泳がんばって下さい。(実)
ボンヤリが実に的確です。リアルな表現から微妙な思いを感受することが出来ます。(登美子)

▼▼ ボンヤリと秋の夜の生命線なぞったり 伊藤千代子

▼▼ 亡母の身内絶え金沢の町の虹が立つ  金子 美代

編集後記

 今号にて二桁の十号を数えることができました。これも、皆様のご協力があればこそと、感謝申しあげるしだいです。これからも素朴さと自由な雰囲気のある誌面を、会員の皆様と一緒に大事に育てていきたいと決意いたしております。(余死行)
メンテ

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