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ぎんなん
日時: 2010/12/13 12:08
名前:   <yusoneda@yahoo.co.jp>
参照: http://soneda.or.tv

平成8年2月に創刊。
隔月に句会があって、また隔月に発行されるA4の8頁の句会と通信互選の発表紙と言っていいと思います。

創立の経緯は、そのうち聴いておいて挙げたいと思いますが、この会は、層雲慶の作家が多いのですが、『層雲』の支部ではありません。

この会の特徴は、主催者を置かず、会員は平等に選句され評される開放的な会であり、その意味で『層雲』などにみられる年功序列や権威主義がありません。
しかし、会の水準は高く、句評も活発です。

初期のメンバーには隗師もおられたことが分かりました。『草原』の随句の基調を試し、理解を得る場として、相応しい会と思っています。

2号  留意事項

 一、出句が正しく扱われる場とする。
 一、一つの志向に拘泥するのではなく、多様な志向を認める場とする。
 一、規定された自由律俳句の場ではなく、自由律俳句を探す場とする。
 一、互いに慣れ合い誉め合う場となることを避ける。
 一、開放的な場とする。関東だけではなく他の地域にも広める。


2号の後記より
 『ぎんなん』について

「ぎんなん」での俳句の発表は、競争の場ではなく、探求の場としたいと考えています。競争は句作する上での一つの方便にすぎないと考えています。かって石井歓(当時、日本合唱連盟理事長)氏に合唱コンクールは邪道ではありませんかと直接話したことがありました。その時氏は、現実に合唱が発展していく上での必要悪と考えていると若い私に話してくれました。競争を自分のものとして句作の励みになるような場としたいものです。   開かれた場とするためには、皆様の意見が必要です。活動内容により優れた方法があれば、そのようにしたいと考えています。お便りを心からお待ちしています。
 無理をせず自然体で永く続きますようにと、また「ぎんなん」が皆様方の句 作の一助になればと思っています。今後、皆様の暖かいご支援とご協力またご 批判を御願いいたします。(幹事一同)
メンテ

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10号 つづき ( No.13 )
日時: 2010/12/30 00:15
名前:   <yusoneda@yahoo.co.jp>
参照: http://soneda.or.tv

一句鑑賞の往復書簡

今月の句

沼に静かな冬空のある細道       緑石

一 信
【横山国士】
沼から緑石の歩いてきた細い道の連なりの奥行きがあり、空という高ささらには横に広がる沼と、それらが立体映像となっている。私の目にはあたかもテレビの一場面のように、あるいは絵画のように美しく浮かんでくる。「静かな」という直接的な、表現が、気にかかるが、他の表現ではどうしても馴染まず、やはりこれしかないのだと知り、さすが緑石らしい完成された作品だと感動した。

【池田常男】
私はこの作者について、手もとの「自由律俳句作品史(永田書房版)」の中の二十数句の作品以外何も知らない。「冬空」や「細道」に託するものがあるかどうかわからない。ある穏やかな冬日、沼は白い雲の浮かぶ空を映している。沼のほとりの道はか細く林の中へと続いている。芭蕉の「古池や・・・・・」の句が連想され、もし単なる情景描写でないとすれば、作者は自分の現在とこれからの人生をこの情景に感じているのであろう。

【篠崎信勝】
緑石の句を観じて思わずうめきが出ました。そこには芭蕉の「古池や・・・・・・」の寂(さび)の世界に通じるものが広がっていたからです。
 芭蕉句は、柳生石舟斉が宮本武蔵に贈った牡丹(あるいは芍薬だったか)の小枝の切り口に驚嘆すべき極意が秘められていたのと同様に、鋭利さがかくされていてしかも盤石のごとく動かない詩であるのに比べて、緑石の句は自然と共に生きて在り、しかも自然の恵みの中に在る人間生活の美が素直にうたわれていると感じられます。もうひとこと申しますと、寂滅の中に一瞬の爆発があり得る驚きが秘められているのが芭蕉句であり、成るがまヽに美がいてそこに在るのが緑石のくであるように感じられます。

  二 信

 横に広がる沼。そこにゆくまでの細道の奥行き、空という高さのたて横高さという立体感にしびれます
 「静かな」と云う直接表現が気になりましたが、他のどんな文句を入れてみてもそぐわず、緑石のうまさに又感動させられました。一字一句が動かないのだと知った驚きはずっと私の頭に残こると思います (国士)
 篠崎、横山両氏の句の鑑賞力―その深さ、的確さに敬意を表します。浅学な私など同レベルでものをいうなど及ぶべくもありませんが、しかし一つの俳句について色々な感じ方があっていいし、たとえば横山氏の所謂立体映像は私の中にも生じましたけれども、その映像は勿論共通部分はあっても、きっと各々の経験や規制概念のせいで、異なるものと思います。篠崎氏の芭蕉句との比較もわかり易く、頷けます。私も芭蕉句を連想しました。
 しかしながら、私はこの句にそれ程感動をおぼえません。風景描写としてもごく平凡な類型的な気がしてならないのです。(常男)
 詠んでまず感じたことは、緑石のこの句、大まかに云って芭蕉の「古池や・・・」の世界に通じているのではと観ました。しかしそれは表面だけで、芭蕉句が研ぎすまされた鋭さを秘めているのに対し緑石句は、自然に生かされながら自然と共生している温もった生活美がうかがえます。(信勝)

声の欄

    【井上敬雄】
句は頭であまりこねくり回さないで体全体で表現したいと思う。この体を生かしているいのちからあふれてくる感動を句にできたら人に知られなくても永遠に残る句になると思う。
 そういう句を作っていこうという気持ちであればたかが俳句といえない。話は大きくなるが大いなるいのちの世界、大自然世界につながっていくものであろうと思う。
 柔道茶道など「道」とつくものは手段、方法は違っても同じところを目ざしているので、俳句もそういう意味では俳句道と言うべきと思う。

【福田安紀子】
今月の一句鑑賞について
子供の頃に聞いた地搗唄が思い出されてしみじみと読みました。「櫓胴搗き」とか「亀の子搗き」とかあったようですが、音頭取りの、いい喉とこれに合わせて唄う仕事唄の、長閑なうた声が思い出されました。
このような地搗仕事をしている人或いは仕事そのものを「ヨイトマケ」とも云った様に覚えています。
今月も句材の背景を読むことのむつかしさを思いました。

【伊沢元美】
 俳句は生活感情を表現することは言うまでもありませんが、それは単に個人の感情にとどまるのではなく、普遍性を持つと思います。個に根ざして個を越えるのではないと句が生きないと思うのです。今や新しい世紀を迎えようとしていますが、世界は悲惨、災害、平和を乱す事態が多発しています。そして人間の尊厳が無視されます。俳句という短詩型がそういった事象に如何に対応すべきかは、甚だむつかしいことと思います。しかし自然の印象のみを巧みに表現するだけに満足しておられないと思うのです。
 いかに活きよといふにや冬日晴るるのみ    安斎桜&#30920;子
この句は「凶作地より」の題で「層雲」(大正三年三月号)に発表された連作風の二十六句中の一句です。東北は大正二年に大凶作に見舞われたのです。
 根たよる山なるを雪のドサと来て  安斎桜&#30920;子
という句もあります。だいぶ昔の句を出しましたが、現今の時代にも考えさせられる作です。桜&#30920;子は「海紅」の作家で晩年、「層雲」に投句していました。
 陸前の旧登米藩主伊達家の御機師たる家業を継いで一生、郷土を離れることがなかった人です。
メンテ
11号 平成9年4月28日 ( No.14 )
日時: 2010/12/31 23:44
名前:   <yusoneda@yahoo.co.jp>
参照: http://soneda.or.tv

    ▼今月の高点句▼

▼▼  日のぬくとさよ落葉のあつみふんでゆく   遠藤 虹水
「日」のあたたかさ「落葉のあつみ」のあたあたかさ。おだやかな心を感じます。(歌也子)
日のぬくとさのたまった落葉の道をゆっくりと歩いていく。雑木山をまだ小さかった子をつれていったことを思いだします。(敬雄)
あつく散り敷いた落葉をふんで歩く。あの感じを忘れることができない。そしてぬくい日ざし最高の思い出になっている。(みい)

▼▼  わが影のながながとゆれて行く夕焼け 篠崎 信勝
ドラマのラストシーンを想わせるこの句。しかし単なるドラマではない。己が人生の終末を詠んでるようで、思わず衿を正す心境になります。   (福司)

▼▼  癒えてなほ続く薬の白湯に寂しさ育つ 河内登美子
「白湯に寂しさ育つ」がうまいと思う。病の後の病人の心境がとても良く出ている(実)

▼▼  久々のこの重さ 幼子膝に笑う 金井 みい
久しぶりに抱いた孫の笑顔と、ずっしりと膝に応える成長ぶりが簡素な表現の中に溢れ、作者の喜びが伝わって来ます。(安紀子)
膝で・・・ではなく膝に・・・で動作が的確に表され、句の奥行きが出ています。一字あけの多い理由を声の欄でお聞きしたいですね。   (余死行)

▼▼  老いて細りゆく手にのびている爪 佐瀬志づ子
しみじみふりかえってみる人生の述懐がのびている爪に如実に出ていて共鳴できる(鳴川)
老い・・・なんと淋しく孤独な言葉でしょう 自分の手をしみじみと見詰める作者の心がせつない (千代子)

▼▼  遠く住む母に聞いて白菜漬けの塩加減 南家歌也子
「遠く住む母」に懐かしさがしみじみ出ている。素直な作品。(朴愁)
娘にとって、いつまでも母親は先生です。うまくまとめられた温かい句です。(尚子)
作者の句はいつも家庭的な愛情がほの見える この句特によろしいい 御母上もさぞ御満足のことでしょう (虹水)

▼▼  足ひとつ曲がった犬が雪に追われてゆく 吉多 紀彦
写生ということを、自由律をやる人はとかく古くさいと思うのは大まちがいだ。(元美)

▼▼  雑木林明るくそれが愛とは気ずかず 伊藤千代子

▼▼  代り映えしない年へ遅い初雪静かに降る 池田 常男

▼▼  被災のぐち鮟鱇鍋に入れて年の暮 下村 鳴川

▼▼  油のきれたペダルが通り過ぎてゆく夜更け  松尾 尚子

▼▼  踏まれてもなお霜の青い麦の芽  佐瀬 広隆


声の欄

【黒崎渓水】
 一句鑑賞、三人三様の解釈、大変面白かったです。常男氏のように、いつも句に対して懐疑的であることは大切だと思います。とかく「あの人の句だ」ということで、余計な先入観を注入して理解してしまいがちですが、句が「自立せる一行の詩」である以上、本来は十数文字単独で勝負するのを第一とすべきだと思います。とはいえ、付帯物を取り去り、裸の文字列と真剣に向き合うのは難しい。
 元美先生のお言葉も、大変、奥深い。機会詩・社会性との連関は、これまでも模索されてきたし、これからも問われ続けてゆくでしょう。万葉集の古より、文学とはそこを出発点としているという説があるくらいです。ただし、俳句に関しては、物理的な短さから、スタート時点ですでに他の表現手段よりはハンディがあり、かつ、相当な力量がないと成功しないという点を認識すべきです。また、たとえば一石路や夢道やあつゆきらの作品を鑑賞するとき、多くの場合、私たちはさきに挙げた「付帯物」によっているところが大きい、という点も見逃してはならないと思います。

  【井上敬雄】
 自然のこと、人間のこと、社会のことを表現する方法は、いろいろな表現方法があると思う。
 俳句の場合、この体に生まれたこと、感じとったことが、ことばになり、そのことばが俳句になっていく。
 肉体そのものが自然、人間、社会の大切なことをつかみとれる力を身につけることが必要ではないかと思う、この頃です。


編集後記

 元美さんの写生については考えさせられ同感でもあります。新しいものに目がいき変わらぬものの大切さを軽視しがちです。斎藤茂吉の「写生」を論じてるなかで、「閑かさや岩にしみいる蝉の声  芭蕉」の句も写生の句として取り上げています。「写生」の奥深さを感じます。伝統的なものや革新的なものの何れでも、その人の自然な心と照らし合わせながら自分のリズムで句が詠めれば上手でも下手でも立派な一句と思います。(広隆)
メンテ
12号 平成9年6月28日発行 ( No.15 )
日時: 2011/01/03 23:57
名前:   <yusoneda@yahoo.co.jp>
参照: http://soneda.or.tv

今月の高点句
▼▼  灸の煙消える先春の光り 北田 傀子
灸の煙が消えていく、その瞬間に春の光を感じた。何か春の光をのぞいた気がする。(敬雄)

▼▼  いつもここが半音高いハーモニカを捨てない 黒崎 渓水
嬉しいとき淋しいとき吹いて使い古して今では変調もあるハーモニカには愛着一入であろう。「捨てない」は端的で軽妙な情感表現。(朴愁)

▼▼  あれもこれもいつも男の居る生活 伊藤千代子
男の存在とは大きく、無のようなもので良いのだろう 作者の幸せな日々が伺われる。(泰寛)

▼▼  雪柳の白さ嘘を引っ込めた 萱沼余死行
「白さ」純白、なんと素晴らしい言葉だ。白に勝る色はないと思う。嘘が引っ込んでしまう力もある。(福司)

▼▼  桜の下タクシー一台の昼静か 吉多 紀彦
桜の下に呼ばれたタクシーが客待ちをしているのであろうか、その風影がいよいよあたりのしずもりをふかめている (信勝)
この句をとやかく説明してはいけない。桜、タクシー、昼、静か、どれ一つ難解な語なく、しかし組み立てられたときもう少しも動かせないものになっている。作者の力量にはいつも感心させられる。(渓水)

▼▼  春一番がさらっていった花柄のハンカチ 松尾 尚子

▼▼  留守居のひとりに春風のガラス窓 篠崎 信勝
「春風のガラス窓」が「留守居のひとり」という作者の心境が適切に生かされている。(元美)

▼▼  迷子の泣き声に振り向くどの顔もお母さん 松尾 尚子

▼▼  芥子粒ほどに見えひばりの声の空 佐瀬 広隆

▼▼  ひとり立つ庭に白木蓮の咲く空 佐瀬志づ子
最後の「空」がすてきです。広々とした空、青い空に白木蓮が美しい。(歌也子)
青空背景に白木蓮の咲く庭にひとり静かに立つ。自然と一体、仕合わせいっぱいの時という感じである。(みい)

▼▼  余寒しみじみ、夜の気のめいるでんわがくる 遠藤 虹水

▼▼  ふる雛かざって女ふたりの濁り酒 福田安紀子

▼▼  ごまかしの利かぬからだとなり電話してくる 下村 鳴川


声の欄(選)

 【伊沢元美】
 ぎんなんの俳句がだんだん見ごたえしてきました。これからも、みんなが、はげみあってゆくことが大切です。
 批評をさかんにすることも必要です。言葉の使い方が句のよしあしをきめると思います。古典をふりかえって眺めるようにしたいものです。現代の句ばかり見ていては井の中のかわずになります。これは自戒です。

【清水福司】
 「ぎんなん」早くも一年を過ぎ、すっかり板に付いた機関紙に成長しました。ここに至るまでの幹事の皆さまのご苦労の程察して余りあり、心から感謝申し上げます。
 今回は名簿に加え出納帳までお送り戴き、その丹念さに驚かされました。その内容を見ますと、絶対必要なコピー、通信費だけで、他の、例えば、ワープロに要する諸経費、或いは会議費等、可成りの額が自己負担になっているものと思われます。幸い多少の残金があるようですので、そうした面にも支出したらと思います。当然の経費は、会員のみなさんも理解し、異論はないと思います。本来でしたら謝礼の問題もあることですが、そうなると会費の関係 が出てきますので、会員のみなさんのお知恵を拝借と云うことになりましょうか。
 今後長く続けていく為にも、出来るだけ自己負担を少なくするよう検討が必要と思います。

【下村鳴川】
 随雲全国大会(秦野)では西から東から懐しい多くの方々とお会いでき満喫した。
随雲賞にぎんなんの会から金子美代さんが受賞されお目出度うございました。
私は選考委員の一人として多くの点を差し上げず恐縮している。然し受賞にかんしては心からお目出度うが云えます。永年のお付き合いだから許して貰えると思っています。
 大会会場の静かなたたずまい新緑は素晴しく、お世話された秦野の会の皆様の適材適所のご奉仕には心から嬉しかった。
 翌日の文学散歩も又素晴らしく、企画された井上敬雄さんにも重ねてお礼申し上げます。

【黒川渓水】
 写生について。確かに俳句を志す者にとっては絵でいえばデッサンであり、音楽でいえばソルフェージュであり決して避けては通れぬ道です。
 しかし一方古来よりの自由律の名句は決してそこにのみとどまってはいない、ということには注目すべきです。
   空を歩む廊廊と月ひとり      井泉水
   石、蝶が一羽考えている      井泉水
   足のうら洗へば白くなる      放哉
 写生から先はそれぞれ各人の個性と力量でしょう。
 広隆氏も述べておられる通り「その人の自然な心」が写生と噛み合ったときその作品は最高のものとなるもでしょう。
 逆に「その人」を否定した「写生」を全員が目指してしまっては、俳句結社としてはまことにつまらないのとなってしまいます。自由律は花鳥諷詠プラスアルファーの高いものを狙っているはずです。このプラスアルファーを(何も井師や放哉と同じである必要 はありません。時代にふさわしいもの)創造してゆきたいと願っています。

【佐瀬広隆】
 六月二二日(日)金子美代さんを囲み隅田川のほとり江戸前ビアホール「アサヒ」で随雲賞受賞の会を催しました。東京近県の人たちに呼びかけ、遠藤、 北田先生、斎藤、萱沼、吉多諸先輩の方々と私が出席しました。店は日曜日で 賑わっていました。金子さん顔は柔和で、家に戻って来たよう、浅草の風情に ぴったりで「墨田育ち」は如何にもと思いました。この会の中で、これから集 まるときは少人数でも句会を持つような形でやろうとも話し合いました。
 二次会、三次会男連中は、すっかり酩酊し金子さんのお祝いのはずが、逆に 金子さんにお世話していただく結果になりました。「ぎんなん」は金子さんあって纏まっていられます。そして言いたい放題のわれわれ若い輩と年を感じさせずにつき合ってもらえることに感謝します。これからもずっと宜しくお願い 致します。
 心から、この度の随雲賞受賞おめでとうございます。


編集後記

 素晴らしい大会を演出して下さった秦野のみなさん、ありがとうございました。心に残る大会のひとつとなりました。
 声の欄に沢山の方のお便りありがとうございます。伊沢氏から発して、佐瀬氏、そして今月の黒崎氏、三氏による写生論、図らずも往復書簡の様になりました。みなさんの近況も知り、俳論も聞き、詩もあり、俳句の英訳もあり、みなさんの手で「ぎんなん」が豊かなものに育っています。編集スタッフ一同感謝しています。これからもいろんなアイデア、ご意見をお寄せ下さい。(紀彦 記)
次号は金子美代さんの特集号とします。お便りをお寄せください。(幹事)
メンテ
13号 平成9年8月28日発行 ( No.16 )
日時: 2011/01/11 23:33
名前:   <yusoneda@yahoo.co.jp>
参照: http://soneda.or.tv

金子美代 特集号

 ひとり下駄の音ころし晩い月と帰る

 うちの杉の木に暫く休んでいた春の月

 みんな死に何も無いよう花ざくろ咲き

 井裄絣に縞の帯で出を待つ間の傘の雨音

 温かい心の花束抱えきれず下りた緞帳

 亡母の身内絶え金沢の町の虹が立つ

  (「ぎんなん」より抄出)

【吉多紀彦】
  ふと和服の肩たたかれJR山手線新緑   美代
和服似合いますよ。外は代々木の緑でしょうか。渋谷でおりてコーヒーでもいかがですか。ときめきがつたわります。    紀彦(92年きゃらぼく6月号)

 私が句評というものを初めてものにした最初の句がこの句でした。勿論、このときは金子美代という女性がどんなひとであるか知らず、初めてお会いするのが翌年の5月、米子定期大会のこと、約1年後でした。この句は美代さんの代表句の一つと考えていますが、このとき驚いた感性の鋭さが今も衰えず素晴らしい句を生み出しておいでになるのを嬉しく思います。随雲賞おめでとうございます。

【臼井美智子】
 「層雲東京句会」から「ぎんなん」に無事バトンタッチしていただいて、心 から感謝しています。
いま「東京句会最終詠草」を開いてみますと、
   夜の車に積まれるショーの終った人形  美代
とあります。
 「東京句会」のショーも終わりました。「随雲賞」の花束を手に、今後もご活躍下さいますように。

【黒崎渓水】
白は高く赤は低めに寒牡丹と備前の壺  美代

は素晴らしい句だと思います。画家が同じものを写生しても個性の違ったデッサンになるように、文字による写生も結局は個性に帰着すると思います。この句の場合、何といっても色彩感覚の妙味がよい。主役たる赤を中心に、それを引き立てるモノトーンを両側に配することにより、生命の躍動感と枯淡さがない交ぜとなり、句に重厚さが感じられます。これは作者の物を見る目の確かさによるものでしょう。このように物をよく見る、見切る、というところから出発しないと、良い句は生まれないのでしょうね。

【佐瀬広隆】
 美代さんの俳句は舞踊との関連が深い。舞踊と下町情緒が融合した美代さん独特の世界である。俳句に自己の世界が表現できたら作者は本望といえるのではないかと思う。女性特有の繊細さを織り込んで、美代さんの俳句は率直に表現される。

  井裄絣に縞の帯で出を待つ間の傘の雨音  美代

 この句は高点句ではなかったが佳い句だと私は思う。美代さんの心がよく現れている。井裄絣の庶民的ないで立ちの舞台衣装を身につけ、小雨の降る鳥肌が立つ薄寒い外気と共に不安と緊張のない交ぜになった緊張感。さあ出番という決意の気持ちが句に表出されている。

  温かい心の花束抱えきれず下りた緞帳 美代

 心血そそいで踊り終え、贈られた幾つもの花束と拍手に充足感と幸福感で一杯になる。

今月の高点句

  夜の車窓に疲れた顔が貼り付く 萱沼余死行
通勤帰りの電車の光景だろう、一日終わって心身共に疲れ切った都会人の生活が「車窓に・・・顔が貼り付く」に克明に表現されている。(朴愁)
 一日働いた顔・顔・顔・・・夕暮れのラッシュにもまれている様子「疲れた顔が貼り付く」という表現がぴったりです。(尚子)
 会えばいつも天真爛漫な作者だが景気上向いてきたようだがお勤めの方も古参ともなれば大変だろう連日の残業の疲れが如実にでている(鳴川)

  嵐のおいていった風の満月 佐瀬 広隆
的確な表現が作者を充分表しています。嵐から風にそして満月と、舞台が変わる様は見事です。(余死行)

  店仕舞いした電気屋のうす暗く春がゆく 伊沢 元美
 逝く春に先がけて閉店した電気屋さん。個人営業の成り立ち難くなった昨今。古くからの馴染みのお店が消えてゆく淋しさを味わいました。(安紀子)
 どこよりも明るい電気屋の灯が消えて、そこら急にうす暗くなり同時に心の春にも幕が下りてきた。いちにちが終わる寂しさとでも云えようか。(信勝)
 句に物語があり、なつかしい風景に出会ったような気になりました(敬雄)
 電気屋さんというと店先が明るいものだが店仕舞いはさびしい、どうしても暗くなる、家の近所の小賣りのフトン屋がこぼしていましたやるせない
 せつない句 (虹水)
 明るかった電気屋が閉店。街の個人商店がだんだん消えてゆく。その淋しさ、世相がよく出ていると思う。(実)
 量販店が出来て立行かなくなった電気屋が店を閉めてる世相の移りかわりと何だかさびしい。うす暗く春がゆくがいきている。(義正)

 月夜の花びらが流れつづける 北田 傀子
月に照らされて小川いっぱい流れつづける花びら 何て美しい!

 若葉のレールまつすぐ五月の風をつっぱしる 遠藤 虹水

 お母さんも元気でと小さな声で切れた電話 松尾 尚子

 人の言葉をきちんとたたんでとっておく 黒崎 渓水

 緑陰で爺婆立ち話が好き実が熟す 臼井美智子

 若葉にぬれて老いの身によりそう息子   佐瀬志づ子

 牛がむおうと鳴く花ぐもりの気だるさ 河内登美子
「むおう」と鳴くと言ったところが春の気だるさをうまく表現していると思う。(常男)

 綿雲に心あずけてもう一人の私が行く街 福田安紀子

 竹林の風に湯上がりの眉を引く(陣屋にて)  金子 美代

【高鳥義正】
 随雲大会で俳句の日の制定と自由律俳句の公募的なイベントを提案しましたが旧態依然とした編集室の対応に失望しました。新機軸を打ち出すために執行部の意識改革が期待されます。

編集後記

 受賞の「墨田育ち」にピッタリな隅田川に架かる吾妻橋東畔の金のオブジェの有るアサヒビルの江戸前ホールで「ぎんなん」の祝賀会を開いて下さって誠に有難うございました 日比谷花壇の美しいバラの花束もうれしく重ねてお礼申し上げます 句の句友の話 これからの在り方流行の地ビールも美味しく杯を重ねました。
 出席者を代表して虹水氏はこの吾妻あたりのお生まれで私とは隣同士の小学校[先生(虹水氏)は明徳 私は外出 学校同士悪口を言ったり喧嘩した] でした。先生は東大(昔帝国大学)医科を出られ 居を移され 現在も杉並で 外科医を開業して居られます 先生は七才も上で 八十の坂を越してもお気は若くお元気です 自由律俳句のせいでせう。
 二次会は一人日本酒三本という浅草の「松風」 下地があるので皆であと三本と云われ 三次の「酔心」へと 最後はかの有名な尾張屋のお蕎麦で解散 楽しい楽しい思い出に成りました。
 隅田川の水も随分と良く成り リバーサイドに散歩道が出来 昔を偲ばせて 近代化されました。私もそんな風にガンバッて行きたいと願って居ります(美代)
メンテ
14号 平成9年10月31日発行 ( No.17 )
日時: 2011/01/17 20:29
名前:   <yusoneda@yahoo.co.jp>
参照: http://soneda.or.tv

十四号 平成九年十月三十一日発行
今月の高点句


  ほわんと生きて今年も朝顔の支柱を立てる 南家歌也子

  都会人にはなりきれぬ深爪の小さな疼き 池田 常男
若い頃は気にならなかったが、古郷への想いが深くなってくると同時に帰れない裏切りに気持ちも深くなってくる自分だけの心象がうかがえる佳作である (泰寛)
   「深爪の小さな疼き」は都会で生きる大変さの心の疼きなのでしょう。がんばって!(尚子)
  流れ雲おいて行った満月の明かるさ 金井 みい

  雲白くくれのこり一番星 井上 敬雄
職場からの帰路、見上げる空が美しく昼から夜へのバトンタッチ、作者も社会人から家族の一人となってゆきます。佳句
  孫の数かぶと虫のかず夏たけなわ 清水 福司

  笹舟を流した 蝶がのってくれた 斎藤  実
笹の上の蝶が黄色く浮かび上がっているようだ。(敬雄)
  いろはにほへとのお銚子で話が弾む 北田 傀子

  肌は白黒黄いろおんな原色をきて原宿が夏 遠藤 虹水

  爺とゆく馴染の犬がちょっと尾を振る 福田安紀子
わたしも犬を飼っているのでこの情景よくわかる。「ちょっと尾を振る」  という犬の懐きように作者の応対の様子まで見えて楽しい。(朴愁)  亡き愛犬の思いは、なかなか断ち切れない。短い尾をピッピッと振ったク  ラちゃん。金子さんの犬の墓の句と共にほろりとする。(群青子)
  ミニカーへ花柄の傘も入ってしまった 北田 傀子

  先づ犬の墓に水を白樺林のかぜを聴く 金子 美代

  梅雨が明けたようなまだなような浮雲 伊沢 元美

声の欄
     【伊沢元美】
  自由律俳句とことわらないでよいと思う。自由律について多言を弄する風潮に左右されて却って俳句の世界から遠のくことがある。若い人に特にそういう傾向がある。言葉のリズムにしばられることがあってはよくない。 

     【清水福司】
  いつもお世話になります。ようやく涼しさがやって来たようです。
  しかし、暑さ寒さに関係なく、年毎に頭の方が確実にぼけて来るようでこまったものです。
  前号の小生の句評(二五番)を見てその感を強くしました。自分では「自由律俳句では口語表現が全盛の昨今」と言う意味のことを書きたかったのですが、「自由律俳句全盛の昨今」と、現在の俳句界にそぐわない表現をしてしまいました。
  お恥ずかしい次第です。今後は十分気をつけなくてはと思っています。

     【黒崎渓水】
  古来、俳句は様々に変化しながら発展してきました。近代に至り、特に井師はその変化を大きくリードしたことは、今更言うまでもありません。
  その系譜に連なる私たちも、その変化という概念を忘れてはならないと思います。むろん文学において、変化とは、誰かに指示されたり、あるドグマの下で強制されたりして成されるものではありません。また、昨日と今日が百八十度、大きく入れかわったりする性質のものでもありません。しかし、少なくても、変化を頑なに拒絶しようとする心の傾向(それはおそらく人間の本性から発生しているものだと思いますが)を認識し、意識的にその壁を取り払う用意をすることは必要であると思います。

     【井上敬雄】
  いつもありがとうございます。
 このごろ句がよくできるようになりました。

  編集後記

「捨てちまった未練探して夜の海」
この作品が「ぎんなん」の中にあっても、誰も違和感は持たないでしょう。
 実は、朝日新聞岡山版に掲載されている「岡山柳壇」の一九九六年の年間賞を受賞した川柳なのです。
 作者は佐々井公子さんで、私の友人です。
 佐々井さんとの手紙のやりとりの中で、川柳が書いてあると、作品のうまさに、いつも川柳と俳句の違いは何なのかと考えてしまいます。もしかすると、作者がこれだと……心の中で宣言しているからこそ、川柳であり俳句なのかも知れません。
 単なる作品の読者からすると、そんなことはどうでもいい、心を震わせる作品をたくさん見たいと、発言することは当然考えられます。
 確かに、この作品は自由奔放なリズムがあり、読後に情景がすぐに浮かぶ、つまりは、読めば解る作品なのです。そこから後に、いろいろと自身の中で人生を一枚一枚めくるように、考えさせられる作品でもあります。
 私など、すぐに格好を付け過ぎて、難解に走り、独善的な句を追い求める傾向がありますので、この点は十分に反省させられるところです。
 やはり、作品の質が大事なのだと思います。その質には勿論、作者の持つ詩心も、心理も、そして時代の流れも、貪欲にいれるならば、きっとや質は高まってくるのだと信じています。
 なんとか佐々井さんに負けない作品をと、肩に力を入れず、作り続けたいと思っています。最後に私が気に入っている佐々井さんの他の作品を掲げておきます。

「十九才に戻して下さいジュゲムジュゲム」
「痛みさえ生きてりゃこそと心地よい」
(余死行)

一三号に錯誤、文字の誤り等編集に手落ちが多数ありました。十分な校正を心がけたいと思います。謹んでお詫びいたします。(広隆)
メンテ
15号 平成10年1月1日発行 ( No.18 )
日時: 2011/01/31 22:27
名前:   <yusoneda@yahoo.co.jp>
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今月の高点句

 老いてすだれごしの風があるうたたね 佐瀬志づ子

 黙祷おわり孫のような亡夫の写真に坐る(52年目の終戦の日) 金井 みい
時間の中のドラマを見ているようだ。しかし、このドラマが作者にとってどんなに厳しく、悲しいものだったかを思うと胸が詰まる。(余死行)
 孫のような≠ニはおもしろい、生きていればこそ年も取りますものネ…、 (千代子)

 お骨おさめてふる里は暑い青空 篠崎 信勝
逝く人を送って、久しぶりのふる里の空を見上げる。昔と変わらぬ暑い夏の 青空に時の流れを感じ、亡き人を偲ぶ。(常男)

 朝餉の干物焼く匂いが階段を登ってくる宿 福田安紀子
古い宿屋の雰囲気がすばらしい。旅館の子に生まれ育った私は郷愁の慟哭し てしまいました。(国士)
 列車の過ぎる音で朝の目が覚めた。あっ俺は今どこの町にいるんだっけ?旅 から旅へと明け暮れた頃のあの町の駅裏宿!(遊水)

 表札読みあげてます黄色いランドセル 井戸 遊水
一枚のスナップ写真を見るよう。小学生のランドセルが一寸難しい漢字をどうにか読んでいる様がいい。(福司)

 燕が帰って行った日のコスモス揺れている 池田 常男
鳥も花も自然である こんな自然がいっぱいの所が大好き。(みい)

 雨 虫の音を消す 斎藤  実
中原紫童の句に「風が蝉をおさえた」という句があります、短く心の動きが まとめられた好句。(紀彦)

 ひとの声する小径へまわる 井戸 遊水
 とてもあたたかな情景が浮かんできます。好きな句です。(歌也子)

 横になり亡夫の句のあるうちわの風     佐瀬志づ子

 人も家もなくなってゆく街が崩れる 佐瀬 広隆
窓ガラスに雨がビツシリ降ってる風景を想像してみた とすると面白い 実 はよくわからない (虹水)

 虫の音に坐る 秋の深まり 井上 敬雄
晩秋になると虫もめっきり少なくなり、その声も自己の魂をうたうかのよう
切々と鳴く。坐って自分の心と対話しながら虫の音を聞いている。(広隆)

 夜のすず虫鳴く一人暮しの障子しめる 金井 みい

 村であった記憶をここに団地の道祖神 横山 国士

声の欄
   【福田安紀子】
 過日、朝日新聞の”折々のうた”に、井師の「巌、月に大坐する」が取り上 げられていました。同じく井師の「富士の見える坐禅石、蝶が坐っている」と 並べて見れば言葉は削るほど冴えて来るという真実を鮮やかに語っている句で ある。……と大岡信氏が評していました。情景のよくわかる句ですのでなるほどと頷けましたが、さて日頃の作句を振り返ってみますと、改めて削ることの むずかしさを思いました。
 ぎんなん十四号とても素敵な句ばかりで、選句に迷いました。今後ともよろしくお願い致します。

   【井戸遊水】
 ぎんなん≠フ作品はどれもわかりやすい句で助かっております。シンプ
ルで誰でもわかる、それでいて奥深い≠サんな句を夢見ております。
 発行が待ちどうしくなりました。

   【伊沢元美】
 世界恐慌が世界的にひろがり、一方では突発的な犯罪。俳諧の世界は現状のままでよいのか。短詩型文学のありかたは、これまでのままでよいのか、と考えざるを得ないです。井泉水がむかし「俳句を焼きはらえ」と叫んだ、あの戦 闘精神を思いおこします。
 老齢化した自分は逃避している様でなさけない思いです。それであきらめて ばかりではだめだと反省しています。「近代俳句雑感」を「随雲」に連載していますが、なかなか、書きしぶること多く困っています。「ぎんなん」の方々 からも応援してもらいたいものです。

   【黒崎渓水】
 先日、一燈園で開かれた放哉、山頭火フォーラムに行って来ました。随雲関 係者も多数詰めかけ、又、小山貴子氏や藤津滋生氏らの講演もすばらしい内容 のものでした。また、自由律には直接関わりはないものの、放哉山頭火には興 味があると言った人たち多数見受けられました。それらの母集団に、随雲を知らしめる必要性を痛感しました。
 前号、伊沢先生や余死行さんのお言葉、とても考えさせられました。

  編集後記

 東京句会を東五反田の五反田シルバーセンター(最寄り駅 JR山手線「大崎」)で開催することになりました。人数が少なくても集まる事が大切と幹事一同で話し合った結果です。今後も年二、三回はと考えています。
 高齢化社会に向かいます。日本での知的好奇心を喚起する老人の社会参加の場はどうでしょうか。実のあるところはほとんどないと思われます。趣味を越え自分を没入できる場がほとんど用意されていません。老人は老いるのみです。生きることに対する真剣さは年令によるものではなく、種々の世代がその真剣さを表現し、日本の文化を担うべきと思います。
 伝統的なお茶やお花の世界は宗匠の世界です。かなり上の指導者の立場の人でさえ本家に多額のお金を上納し本人の利益はなく持ち出しの状態です。これでは生き生きとした人間のための文化にはなりえません。
 自由律俳句はこうした因習による権威や習慣はありません。これから築いて行く発展途上の文化です。受け皿の大きさも大きいしまた広く深い。そのノウハウを所有していないため、いまだに市民権を得たとは言い難い。我々にどれだけの力量があるのかわかりませんが、たゆまぬ努力と自己に素直な表現を試 みながら、持続すること、縁を結んでいくことを通して自由律俳句の素晴らしさを知らせてゆくことが大切だと考えます。(広隆)
メンテ
16号 平成10年3月1日発行 ( No.19 )
日時: 2011/01/31 23:08
名前:   <yusoneda@yahoo.co.jp>
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今月の高点句

 心に想う人があるずっと夕陽をみている 南家歌也子

 港の見える島の石段にこしかけている 井上 敬雄
海なし県に住む私には島の石段と港にメルヘンの世界に誘われる想いがしました (国士)
 まつたく言葉のなくなった詩である。漁舟あるいは連絡船をもそして人影まばらな島の港を遠く目に入れて、心はまさに不立文字の世界に居られる。(信勝)
 この句だけでは不十分であり、一句目の内容をふくむ表現が必要であろう。一句で表現するには精一杯であるのだろうか?(泰寛)

 枝すつかりおろして夕空になつている 遠藤 虹水

 手のとどきそうな柿の実で旅の窓 斎藤  実

 遠い日の母の想い出に植える葉ボタン 伊藤千代子
冬の寒さへひるむ事なく、かっちりと姿勢を正す葉牡丹の品位、そんな葉牡丹に母への想いを寄せる作者の姿が見える様です。(登美子)

 ろうそくを消した風の小声 吉多 紀彦
 ろうそくの明かりがいい。前の句と一緒のところでつくられたと考えれば、聖堂の外から風に消えたろうそくの明かりの消える一瞬のまたたきを「風の小声」と表現されたところがいい。(敬雄)

 消したい記憶ぶらさげた散歩 萱沼余死行
 小生も含めて誰しもこういう経験はあると思います 散歩しているとウツはいつの間にかはれるもの大に散歩して下さい (虹水)

 行きたくない所へ私を乗せていく電車 松尾 尚子
 行きたくなければ乗らなければいいのに。でも行かなければならない。人の世の柵か。そんな心をうまく句にしている。(実)
 これはおだやかではない。電車だったので少しよかったです。自動車でしたら事件がらみです。うまい句です。(正治)

 交わることのないつづく鉄路にふる氷雨 佐瀬 広隆
 交わることのない鉄路とそれに降りそそぐつめたい雪まじりの雨、つよくひかれる情景です、ただ既に詩語としてある「氷雨」を何かに置換えたい気がします。(紀彦)
 冬へ向かう季節の心寂しい思いが ぬれた鉄路≠ノよく あらわれています、好きな句です、(尚子)
 北海道の原野が目に浮かびます。外国で見たのは雄大な早春の廃線でした 人生もしかり 淋しいですネ。まだ先があります (美代)

 楽しいことも大方無く冬の陽射し 佐瀬 広隆

      声の欄

    【井上敬雄】
 新年号は二十一句好きな句がありうれしくて何か気分がよくなります。好き
な句に沢山であえるのはありがたいです。四十四句中二十一句胸にひびいてく
る句がある、こんな楽しいことはないです。
 一度、伊沢先生に一日みっちり集中講義をみなさんと受けたい気がします。
自由律俳句の歴史のようなことを是非お聞きしたいと思います。

    【菊池正治】
 俳句と川柳の違いに触れてみます。一口に言うと、モチーフの違いです。川 柳の人たちの一部では柳俳一如、柳主俳従など唱え、新ジャンルなどと言っています。私達が俳句と川柳の区別がわからないなどと言っていると彼らにつけ こまれます。はっきりと俳句と川柳は違います。
 古い話になりますが、

   粉屋が哭く山を駆けおりてきた俺に      金子兜太

 この句は川柳です。しかし俳句として発表したのです。

   子を産まぬ約束で逢う雪しきり     もりなか えみこ

 これは上等な俳句です。だが川柳として発表され話題を呼びました。
 俳句は真摯に芸術を求めるものでしょう。あまり大衆ウケをねらうと川柳になります。私はこの事に注意しています。又誰が作ろうと作品自体によって区別しています。

    【斉藤実】
 先日のぎんなん東京句会では大変お世話になりました。
 久し振りの句会、とても楽しい一日でした。句は一人で作るものですがたま には自分の句、他人さまの句について生の声をききたいと思うことがあります。そんな時句会はとても勉強になります。先輩の一言で何かをつかめたりもします。色々お忙しいでしょうがたまには句会をお願いします。

    編集後記

 ぎんなん発刊以来念願だった東京句会が盛会のうちに終わりました。浜松の鶴田育久様はじめ、皆さんはるばる遠くからお集まりいただき幹事一同厚く御礼申し上げます。
 初めて参加の方もおいでになり、まだご挨拶の部分もありましたが、回を重ねて行くうちに色々談論風発となって行くと思います。今回参加できなかった方も次回は是非ご参加下さい。幹事団の身内ではありますが、金子さんにはずいぶんお世話になりました。会場の設定から、二次会にご自宅を提供して下さるなど有り難うございました。大手映像製作会社にお勤めのご長男も加わっていただき楽しい会となりました。こちらは参加者を代表して厚く御礼を申し上げます。このぎんなんが皆様の豊かな交わりと結びつきの器として今後も発展して行くことを祈ります。(紀彦)
 突然ですが、今月号の「作品」は、作者名無しで行いました。今後二ヶ月おきに行いたいと考えています。御意見をお寄せ下さい。(幹事一同)
メンテ
16号 付録 ( No.20 )
日時: 2011/01/31 23:10
名前:   <yusoneda@yahoo.co.jp>
参照: http://soneda.or.tv

  東京句会新年会に参加して


 一月二五日(日)東京の大崎駅から徒歩五分、目黒川ほとりの五反田シルバーセンターで東京句会新年会が開催されました。空っ風は少し吹いていたものの当日は穏やかな日より、流れのない目黒川にはカモメが柔らかな陽を浴びあちらこちらに浮いていました。新年会の参加者は、浜松から鶴田育久さん、秦野から北田傀子さん、横浜から池田常男さん、夷隅から萱沼余死行さん、東京の中村伊知郎さん金子美代さん吉多紀彦さん井戸遊水さんそれに千葉の私(佐瀬広隆)と母の志づ子の計十一名でした。余死行さんの司会進行で美代さんの挨拶、句会が始まりました。同じ自由律俳句を志す者同士の和やかさ中に、個々の俳句観を主張し合いながらの充実した句会でした。
 高点句は南家歌也子さんの

  流れていくのは雲か私か寝転んでいる

 熱っぽく紀彦さんが語る。「草原に寝転んでいると周りは見えないで、見えるのは空ばかり。空をみていると動いているのが雲なのか自分なのかわからなくなる、そんな錯覚に囚われることがよくある。的確で素直な表現だ。」

  梅少し残る暮れの一文字欠けたネオン  池田常男

 「悔いを残した心持ちのとき、夕暮れの車窓に映る一文字欠けた街のネオンを目にした。その時の印象と心を巧みに取り合わせたと。」しかし、また「悔いと欠けたネオンの間には幾分距離があるのでは」とも。

  波に誘われた葉が旅を始める   黒崎渓水

  「この句に流れていくヤシの実のようなロマンをみてとり。」と私。「旅をするのが葉は不自然。瓶やヤシならわかるが・・・」

   見下ろす銀杏谷へ散っている         北田傀子

 「この句の高度感に私は圧倒された。」と遊水さん。「銀杏の木は普通は見上げるが、銀杏を見下ろしての視点は特別。銀杏の木から崖の下の谷底までの高度は素晴らしい。」等々。
 自己の考えを織り交ぜながら、時に批判的な意見を期待し意見を求める余死行さんの軽妙な司会が続く。出席者の俳句観が偏ることなく、雑多な意見が交錯し、句会は、爽快な熱気が醸し出された。
 一時間を過ぎ記念撮影の後、美代さんの手料理や吟醸酒がふるまわれた。料理やお酒は皆美代さんにおんぶにだっこである(これは反省点である・・)。一升瓶の吟醸酒は空になった。赤く上気した顔が並ぶ。普段顔を合わせていないにもまた年齢の差が互いにあるのに関わらず、句仲間どうし心の垣根を取り払って会話が交わされる。あっという間に四時半を過ぎた。二次会の会場は裏の美代さん宅に移された。全員が美代さん宅に、そして美代さんの長男の方も二次会の席に加わった。遊水さんが素朴な疑問をぶつけ、二次会は俳論を戦わす場になった。
 何の利害もなく、俳句の事だけで自分の大切なものを真剣にぶつけられる、そんな仲間が集まれるのはなんと幸せな事かな≠ニ思いながら二次会を中座した。ほてった顔を目黒川の川風に当てながら余死行さんと母と帰路についた。(広隆)
メンテ
17号 平成10年5月1日 ( No.21 )
日時: 2011/03/11 23:31
名前:   <yusoneda@yahoo.co.jp>
参照: http://soneda.or.tv

今月の高点句

 降れば降る日の仕事があり男の大きな手袋       河内登美子
病む子をおいて勤めにでる母親の、気もそぞろにドアの鍵をまさぐる。 姿。後髪を引かれるとはこの事、この時。心情の滲む句  (安紀子)

 雪ふる夜の明かりをけす               井上 敬雄
た。私も寝るとしよう。(信勝)

 病む子ひとりおいて出る門扉おもく          井戸 遊水
「門扉重く」に子を想う心が表現されていて、この句の鍵となっています。   (登美子)

 雪の中来てくれて女の匂い              北田 傀子
雪の句が多い中で、とても人目を引く句であると思った。それは匂いで雪の透明感が消えたからだろう。(余死行)
近松文学の歌舞伎の世界である。エロスの匂いのする素敵な句である    (泰寛)

 その家の温かさは生垣の寒椿             南家歌也子
庭や生垣の花のありようでその家の住人が感じられます。見る人の心のあたたかさも感じる一句です。(紀彦)

 心の穴に酒を満たす                 萱沼余死行
ぽっかりあいた心の穴にどうにもならない辛さで重ねた酒の量。私の心にも痛いほど伝わりました。(国士)

 切られて落ちた髪の白の割合             吉多 紀彦

 冬の月さえざえと女の内を射つ            伊藤千代子

 冬空を見つめて人間商賣いやになる時もある      遠藤 虹水

 不安で泣き出したい気持ち笑顔にする         南家歌也子

 泣いたような片目の月が通夜の戻り          金子 美代
片目の月とは三日月と思われるが、言い得て妙。それが通夜の戻りと続くのがぴったり  (虹水)

 合いそうで合わない数字の深い手の皺         河内登美子

 子の咳もれて朝の扉の鍵を挿す            井戸 遊水
病む子をおいて勤めにでる母親の、気もそぞろにドアの鍵をまさぐる。 姿。後髪を引かれるとはこの事、この時。心情の滲む句  (安紀子)

 ぼたん雪がとまったつぼみふくらんでいる       斎藤  実

声の欄

  【黒崎渓水】
 投句者名を伏せるか否か、という問題は興味深いことであり、俳句を考える上では重要なことではないかと思います。「雨の舟岸により来る」知らぬものはない放哉の名句ですが、では「放哉」という冠をはずしたとき、詩として一本立ちしているかということについては、私は疑問に思っています。また読者の方としても、この句を提示された時には放哉自身の自解を思い浮かべざるを得ず、純粋に味わうことは困難でしょう。歌人佐々木幸綱のタイトルに、「直立せよ一行の詩」というものがありますが、俳句においても作者名やことば書きなど、すべての従属物を剥ぎ取ったあとににも人の心に響く作品こそ、理想とすべきでしょう。そしてその後に、さらに深く理解されるために、作品そのものプラスαが提示されるべきでありましょう。

  【遠藤虹水】
段々ご発展、ご同慶の至りです。なかなか佳句が多くなったように思います。
一月の句会の成績が本号にあるのかと思っていたら全然ないのでがっかり。
次回はそのように願いたいものです。それから、三一「会いそうで会わない」の句は好きな句ですが、(深い)はない方がよいと思われる。

  【井戸遊水】
 雑誌「俳句あるふぁ」に「定型かそれとも自由律か」という記事がありました。その中に『自由律も俳句であるからには、俳句の主権に属する領域はしっかり守ってゆくという義務もあり、その中の自由を獲得してゆく努力をすべきだったかもしれません。』とありました。フーム!
私も俳句性やハイクっぽさを求めて句作するようにしていますが、自由に作ると、”自由詩”のようなホーラツな句ができてしまいます。ムズカシイもんですね!


   編集後記

  若葉のさみどりが街のいたるところに溢れ、情熱に翳りの出てきた熟年の私は、その勢いに圧倒される思いです。ぎんなんも三年目に入り実験の場としての役目をいくらか果たせたのかなと思います。先月号は随分校正ミスがありました。私の不注意のためにミスが同一作者に集中してしまいご迷惑をおかけしたことをお詫びしなければなりません。作品の一字一句は作者の心そのものの表白ですので、これを大切にしなければいけないといつも思うのですが、肉体に気力が伴いません。新たに原稿と会誌を別の幹事に見てもらい、ミスを極力防ぐようにしたいと思います。また斬新な企画がありましたらご提案下さい。(広隆)
(つづく)
メンテ
17号 つづき ( No.22 )
日時: 2011/03/11 23:32
名前:   <yusoneda@yahoo.co.jp>
参照: http://soneda.or.tv

  東京句会新年会に参加して

 一月二五日(日)東京の大崎駅から徒歩五分、目黒川ほとりの五反田シルバ
  ーセンターで東京句会新年会が開催されました。空っ風は少し吹いていたものの当日は穏やかな日より、流れのない目黒川にはカモメが柔らかな陽を浴びあちらこちらに浮いていました。新年会の参加者は、浜松から鶴田育久さん、秦野から北田傀子さん、横浜から池田常男さん、夷隅から萱沼余死行さん、東京の中村伊知郎さん斎藤実さん金子美代さん吉多紀彦さん井戸遊水さんそれに千葉の私(佐瀬広隆)と母の志づ子の計十一名でした。余死行さんの司会進行で美代さんの挨拶、句会が始まりました。同じ自由律俳句を志す者同士の和 やかさの中に、個々の俳句観を主張し合いながらの充実した句会でした。
 高点句は南家歌也子さんの

 流れていくのは雲か私か寝転んでいる

  熱っぽく紀彦さんが語る。「草原に寝転んでいると周りは見えないで、見えるのは空ばかり。空をみていると動いているのが雲なのか自分なのかわからなくなる、そんな錯覚に囚われることがよくある。的確で素直な表現だ。」

  悔少し残る暮れの一文字欠けたネオン 池田常男

 「悔いを残した心持ちのとき、夕暮れの車窓に映る一文字欠けた街のネオンを目にした。その時の印象と心を巧みに取り合わせたと。」しかし、また「悔いと欠けたネオンの間には幾分距離があるのでは」とも。

波に誘われた葉が旅を始める   黒崎渓水

 「この句に流れていくヤシの実のようなロマンをみてとり。」と私。「旅をするのが葉は不自然。瓶やヤシならわかるが・・・」

  見下ろす銀杏谷へ散っている    北田傀子

 「この句の高度感に私は圧倒された。」と遊水さん。「銀杏の木は普通は見上げるが、銀杏を見下ろしての視点は特別。銀杏の木から崖の下の谷底までの高度は素晴らしい。」等々。
 自己の考えを織り交ぜながら、時に批判的な意見を期待し意見を求める余死行さんの軽妙な司会が続く。出席者の俳句観が偏ることなく、雑多な意見が交錯し、句会は、爽快な熱気が醸し出された。
 一時間を過ぎ記念撮影の後、美代さんの手料理や吟醸酒がふるまわれた。料理やお酒は皆美代さんにおんぶにだっこである(これは反省点である・・)。一升瓶の吟醸酒は空になった。赤く上気した顔が並ぶ。普段顔を合わせていないにもまた年齢の差が互いにあるのに関わらず、句仲間どうし心の垣根を取り払って会話が交わされる。 あっという間に四時半を過ぎた。二次会の会場は裏の美代さん宅に移された。全員が美代さん宅に、そして美代さんの長男の方も二次会の席に加わった。遊水さんが素朴な疑問をぶつけ、二次会は俳論を戦わす場になった。
 何の利害もなく、俳句の事だけで自分の大切なものを真剣にぶつけられる、そんな仲間が集まれるのはなんと幸せな事かな≠ニ思いながら二次会を中座した。ほてった顔を目黒川の川風に当てながら余死行さんと母と帰路についた。(広隆)
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